2018年国の有形文化財に認定
「兵庫津」(ひょうごのつ)は、古代から明治に至るまで、国内外の交易の要衝として名を馳せた良港でした。
古くは、「務古(むこ)の水門(みなと)」、「敏馬(みぬめ)の浦」と呼ばれ、朝鮮半島との交易、平安時代には「大輪田泊」と呼ばれ平清盛が港を修築し日宗貿易、鎌倉時代には重源がさらに港を修築し兵庫津と呼ばれるようになり室町時代には日明(勘合)貿易、朝鮮通信使の寄港地となり、鎖国以降の江戸時代には北前船、尾州廻船など瀬戸内海運の拠点となって栄えました。
そして岡方とは近世(江戸後期)に尼崎藩の支配下から幕府領に移った後、大阪奉行所が兵庫津を管轄するために三方、つまり南濱、北濱、岡方と三分割した行政区分の名称です。岡方はこの三方のうちで西国街道に接する海運、陸運の結節点として繁栄しました。『江戸時代兵庫津は狭い地域に2万人もの人口は北前船交易で経済活動が潤い各地から多くのベンチャー志向の人が押し寄せ一大情報都市でもありました。兵庫商人は日本・海外へもウイングを拡げたのは兵庫港の水平線の彼方に浪漫を描いたのかもしれません。そして兵庫商人は切磋琢磨して事業を行い地域住民とも兵庫津の地域愛を共有し地域に誇りを持っていました。
岡方倶楽部は、海陸の要衝として繁栄を極めた江戸時代の岡方惣会所の、まさにその跡地に兵庫商人の社交場として昭和2年に建造された倶楽部建築です。高松吉三郎設計による堅牢な鉄筋コンクリート3階建ての建築で、大正時代に流行したセーセッション(分離派)と呼ばれる様式の一例に属し、タイルと石を張りめぐらした外観に見られるような直線性、平面性を強調した単純な構成と幾何学的な装飾を特色とします。正面玄関のアーチ装飾や軒周りの波を抽象化した装飾、館内では三階のホール扉の楕円形装飾や、ホール壁面から天井に連続する巧みでありながら簡潔な漆喰装飾が見所となっています。
大阪には、この時代のトピックである社交場として、大大阪の時代に建造された大阪倶楽部、綿業倶楽部、中央電気倶楽部が存続しています。岡方倶楽部は大正13(1924)年に新川運河に架橋された3連アーチの名橋・大輪田橋とともに悲惨な戦災、震災に耐え、一帯で生きのこった兵庫津経済の象徴にふさわしい今後の活用が期待される名建築です。